■童謡の作詞家 野口雨情 - のぐち うじょう -

童謡音楽作詞家 野口雨情は,北茨城市生まれで,明治,大正,昭和の三時代にわたり,詩,童謡,民謡作詞家の分野に 大きな業績を残し,北原白秋,西条八十とともに三大童謡,民謡詩人の一人と呼称され,野口雨情の作品は,庶民的で郷土色豊かな味わいをもつことから多くの人々の心に深い愛着を抱かれ,少年時代から文学的素養に富み,回覧雑誌への掲載のために民謡風の詩作をしていたと言われている。
野口雨情記念館 ( 北茨城市歴史民俗資料館 ) には,『 雨情作品抄 』,『 雨情詩碑一覧 』,『 雨情略年譜 』などがあり,雨情の生涯がわかり易く解説され,日本美術院の五浦時代が日本近代美術史上に残る数々の名作を生んだ重要な時期だったことや北茨城市出身の飛田周山作の絵画,岡倉天心や横山大観の写真等,五浦の日本美術院にかかわる資料などがある。
1935年 ( 昭和10年 ) ごろから野口雨情の詩作は減少し,1943年 ( 昭和18年 ) 軽い脳出血で倒れ,現宇都宮市郊外,旧栃木県河内郡姿川村鶴田に戦火を避けて疎開し療養に専念したが,1945年 ( 昭和20年 ) 1月27日,童謡の野口雨情は,行年63歳,疎開先で永眠した。

■野口雨情の生い立ち

1882年 ( 明治15年 ) 5月29日,野口雨情は,現北茨城市,旧茨城賀郡磯原村に父量平,母てるの長男として生まれ,英吉と名付けられた。

野口雨情の生家は,かつて水戸徳川家藩主の御休息所で『観海亭』とか『 磯原御殿 』 と呼称され,家業は廻船問屋を営む名家で,父は村長を二期勤めた人望家。1897年 ( 明治30年 ) 伯父の衆議院議員 野口勝一 ( 北巌 ) 宅に寄宿し,東京数学院中学,順天中学を径て,同34年4月,現早稲田大学の東京専門学校高等予科文学科に入学して坪内逍遥に学んだが,1年余りで中退して詩作を始めた。

1905年 ( 明治38年 ) 民謡詩集 『 枯草 』を自費出版し,1907年 ( 明治40年 ) 三木露風,相馬御風らと共に早稲田詩社を結成したが,しばらく詩作から遠ざかり,雨情は北海道に渡り,同僚の新聞記者の石川啄木と 『 小樽日報 』 に勤め交友を結ぶが,2ヶ月ほどで啄木が先に退社し,雨情も1909年 ( 明治42年 ) に,二年あまりで北海道を離れ,いったん帰郷したが再度上京した。

■詩人 野口雨情

詩人としての童謡の野口雨情は,不運と失意の繰り返しで,1902年 ( 明治35年 ) 3月,文芸雑誌 『 小柴舟 』 で詩壇に登場したが思うように行かず,37年父の死で帰郷し家督を相続。現さくら市,旧栃木県喜連川出身の高塩ひろと結婚。翌年処女詩集 『 枯草 』 を自費出版したが詩壇への復帰はならず,明治 45年中央から離れて詩作活動を続けた。

1915年 ( 大正4年 ) 妻ひろと離婚後,現いわき市常磐湯本町の柏屋に移り詩作活動を続け,同 7年水戸へ出て 『 茨城少年 』 の編集をしながら童謡作品を発表し,中里つると結婚した。

童謡の野口雨情は,1919年 ( 大正8年 ) 西条八十等の紹介で児童雑誌に童謡作品を発表。詩集 『 都会と田園 』 で詩壇に復帰,斎藤佐次郎の 『 金の船 』 で童謡を次々と発表。藤井清水,中山晋平,本居長世と組んで多くの名作を残し,北原白秋,西条八十とともに童謡界の三大詩人と謳われた。

童謡の代表作は,『 赤い靴 』,『 青い眼の人形 』,『 十五夜お月さん 』,『 七つの子 』,『 シャボン玉 』,『 こがね虫 』,『 あの町この町 』,『 雨降りお月さん 』,『 証城寺の狸囃子 』,『 波浮の港 』,『 船頭小唄 』などがある。


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